はじめに
統計が示す現実は、想像より冷ややかです。文部科学省の調査では、学校で認知された「いじめ」は直近年度で約68万件に達し、過去最多水準が続いています[1]。職場でも厚生労働省の個別労働紛争解決制度に寄せられる「いじめ・嫌がらせ」の相談は10万件超で、長年トップ項目です[2]。数字は感情を映しませんが、生活のすぐそばに問題があることだけは確かです。編集部には、子どもへの心配と、自分自身や部下に関する相談が同時にのしかかる年代特有の声が届きます。個人戦からチーム戦へ。役割が増える35−45歳だからこそ、感情論ではなく、現実的で再現性のある対処法が要ります。
いじめという言葉は広く使われますが、意味は曖昧になりがちです。医学文献や社会心理学の研究では、繰り返し、力の不均衡、相手に苦痛や不利益が生じる行為が核とされます[3]。職場のパワーハラスメント、学校の同級生間のからかい、オンライン上の誹謗。呼び名が違っても、「安全と尊厳を損なう行為」への対応原理は共通しています。ここでは、今日から使える一次対応、組織・学校への働きかけ、役割ごとの視点まで、編集部がエビデンスと実務の観点で整理します。
いじめを“定義”して見逃さない:現状把握とサイン
まず立脚点をそろえます。研究データでは、いじめは一回限りの不快な出来事とは区別され、継続性と力の非対称性が特徴です[3]。職場では業務上の指導との線引きが難題になりますが、厚労省のガイドラインは、人格否定や隔離・無視、過大な要求や業務外圧など、業務上必要かつ相当な範囲を逸脱した行為を問題視しています[4,5,6]。学校の枠組みでも、からかい、排除、ネット上の拡散など、手段が多様化しています[3]。つまり、意図より結果としての苦痛と反復性に注目して記録を始めるのが第一歩です[3]。
見逃しやすいサインも日常の中に紛れます。自分の場合なら、日曜夕方の強い憂うつ、胃腸症状の再発、寝つきの悪化、通勤動線に近づくと動悸がするなど、身体の変化として現れることが少なくありません。子どもの場合は、朝の準備が極端に遅くなる、持ち物の紛失や破損が続く、端末の通知に過敏になる、食欲や表情の変化が続くといった行動の連なりがヒントになります[7]。どれも単発では判断できませんが、カレンダーと一緒にメモを残すと、パターンが浮かび上がります。記憶より記録。これが後の相談や説明の土台になります。
学校と職場では、制度の入口も異なります。学校には「いじめ防止対策推進法」に基づく校内体制があり、担任や学年主任、管理職、スクールカウンセラー、教育委員会への連絡の流れが整備されています[3]。職場には就業規則やハラスメント相談窓口、人事労務による調査・是正の仕組みがあり、場合によっては労働局のあっせん制度を活用できます[2]。違いはあっても、「安全確保」「証拠の蓄積」「第三者の介入」の三つは共通言語です。
今日からできる一次対応:安全確保、記録、相談
いま苦しいときに必要なのは、完璧な戦略よりも、安全と体力を取り戻すためのミニマムな手順です。まず安全確保です。相手から距離を取れる動線を選ぶ、単独で向き合わない、オンラインではミュートやブロックの設定を使うなど、自分を守る選択をためらわないでください。学校であれば、保健室や図書室などの“避難場所”を事前に子どもと合意しておくと、当日の判断が軽くなります。
次に記録を始めます。日時、場所、関係者、具体的な言動と自分や子どもの反応、その後の影響を一つの出来事ごとに短文で残します。例えば「7月3日15時、会議室Bで上司Aから『無能だ』と発言。同席B、心拍上昇、退室後10分休息」や、「6月20日朝、昇降口で同級生数名に『来るな』と言われ、教室に向かえず保健室へ」など、事実と時間軸で並べます。スクリーンショットや画像は日付が見える形で保存し、紙のノートにも要点を転記しておくと、データ消失のリスクを下げられます。
並行して相談の窓口を選びます。職場であれば、信頼できる上長やハラスメント相談窓口、人事部、産業保健スタッフに順にアクセスし、記録をもとに「事実の共有」と「調査・是正の要請」を明確に伝えます。学校では、担任への連絡から入り、管理職やスクールカウンセラーを含む面談を設定し、必要に応じて教育委員会の相談窓口につなげます。どの場面でも、感情の訴えと同じくらい、具体的な出来事と希望する対応を短く言語化するのが効果的です。「この二週間で三回、同じ生徒から暴言と持ち物の破損がありました。安全を確保する当面の対応と、クラス運営上の再発防止策の検討をお願いします」のように、数字と要望を結びます。
言いづらい場面に備え、フレーズを用意しておくと負担が軽くなります。「事実を確認したいので、今の発言をもう一度お願いします。記録のためにメモを取ります」「業務上の指導と理解していますが、人格に関わる表現は控えてください」「子どもの安全が最優先です。今日は別室での受け入れをお願いします」。短く、落ち着いた声で、同じ表現を繰り返すことが自分の支えになります。
最後に、体をケアします。睡眠と食事の基本に戻り、歩く、伸ばす、深く呼吸する。短時間でも効果があります。地域の相談窓口や自治体の無料相談、学校のカウンセリング、職場のEAP(従業員支援プログラム)など、プロの支援を早めに取り入れるのも戦略です。
組織・学校への働きかけ:中長期の設計図
一次対応が回り始めたら、再発防止と環境の修復に焦点を移します。職場では、就業規則・ハラスメント方針の確認から出発し、調査手順、関係者のヒアリング、是正措置、フォローアップの流れを明文化してもらうと、曖昧さが減ります。書面での要望提出や面談の議事メモの共有は、関係者の理解をそろえる有効な手段です。配置や業務の見直し、第三者を交えた面談、研修の実施など、具体策が時間軸とともに示されれば、当事者の見通しが立ちます。外部の選択肢として、都道府県労働局の「あっせん」制度や法的助言の活用も、組織内で解決が進まない場合の現実的なステップです(詳細は厚生労働省の公表資料を参照)[2]。
学校では、法制度が味方です。「いじめ防止対策推進法」に基づき、学校は組織的対応を取る責務を負います[3]。担任任せにせず、管理職やスクールカウンセラー、養護教諭を含む会議で、当面の安全確保(席替えや別室対応、登下校の見守りなど)と学級経営上の予防策(ルールづくり、授業での扱い)をセットで検討してもらいます。長期の欠席や心身の不調が続くなど、重大事態にあたる可能性がある場合は、第三者委員会等の調査や教育委員会による関与が行われます[1]。保護者としては、事実経過と要望を一枚の紙にまとめ、学校の対応経過の記録(校内のいじめ記録簿)を残すよう依頼すると、対応の質が安定します。
オンライン領域の対策も不可欠です。SNSやチャットの投稿は証拠になり得ますが、拡散させないことが最優先です。URLや投稿日時の記録、プラットフォームの通報機能の利用、学校・職場・保護者を巻き込んだ窓口の一本化など、ラインを一貫させると対応が加速します。誹謗中傷が名誉やプライバシーの侵害に当たる恐れがある場合は、プラットフォーム事業者や専門機関への相談も検討します。
親・管理職・当事者——立場ごとの視点と、チームで守る文化
親としては、事実確認より先に、子どもの安全と感情の受け止めを優先します。「話してくれてありがとう」と伝え、子どものペースを尊重し、解決案は一緒に考えるスタンスで臨みます。聞き取りは短い時間を複数回に分け、学校での様子と家庭での回復のサイクルを整えると、子どもの表情が戻りやすくなります。相手の子や保護者への直接連絡は避け、学校を通じた公式のラインで進めることが、のちのトラブル予防になります。
管理職・リーダーとしては、未然防止が最大の対処法です。会議での発言ルール、1on1での早期キャッチアップ、匿名アンケート、相談窓口の利用しやすさの周知。どれも即効性のある投資です。心理的安全性をめぐる研究では、メンバーが不安なく発言できるチームは、学習行動が活性化し、業績にも良い影響があると示されています[8,9]。問題を見て見ぬふりをしない「傍観者の勇気」を組織の規範にすることも、現場を救います。言いにくい場面を想定したフレーズをチームで共有しておくと、誰かが一歩を踏み出しやすくなります。「今の表現は人を傷つける可能性があるので、言い換えませんか」「議題に戻しましょう」。たった一言が、場の空気を変えます。
当事者としてできるセルフケアは、無力感に飲み込まれないための錨になります。自分を責める思考に気づいたら、「それは事実か、解釈か」と問い直す。信頼できる人に事実を共有し、孤立を避ける。専門家との面談をスケジュールに組み込み、身体のケアと同じレベルで心のケアを扱う。回復には波があります。うまくいかない日があっても、記録を続け、支援を受け続ける行為自体が前進です。
研究と実務の視点から伝えたいのは、早期の介入が被害の長期化を防ぐということです。学校でも職場でも、初期の小さな違和感を記録・共有する文化があるだけで、深刻化は多くの場合で防げます。統計の背後にいるのは一人の生活であり、その生活には睡眠、食事、通勤、送り迎えといった繊細な段取りがあります。私たちは問題の「処理」ではなく、人の「回復」をゴールに置くべきです。
出典の一例として、文部科学省「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」および厚生労働省「個別労働紛争解決制度の施行状況」を参照しています[1,2]。各自治体・学校・企業の最新の方針も併せて確認してください。
まとめ:完璧を目指さず、動き続ける
いじめ問題は感情を揺さぶります。怒りや悲しみが先に立つのは自然です。それでも、私たちが頼れるのは、記録という小さな事実、相談という小さな行動、そして安全という小さな選択の積み重ねです。安全を最優先に、事実を残し、第三者とつながる。この三つが揃うと、状況は必ず動きます。今日、カレンダーに一件だけでも記録を残すこと。信頼できる一人に状況を共有すること。学校や職場の窓口の連絡先をスマホに登録すること。どれも五分でできる行為です。あなたの一歩は、子どもやチームの未来の安心につながります。心細さは、確かな手順で薄まります。
参考文献
- 文部科学省 令和4年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査(いじめ認知件数・重大事態等) https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1422178_00004.htm
- 厚生労働省 個別労働紛争解決制度の施行状況(いじめ・嫌がらせ相談件数、あっせん制度など) https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/newpage_00132.html
- 文部科学省(参考)現行定義「いじめ」の定義等(調査における定義) https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/040/shiryo/07032004/004.htm
- 厚生労働省 熊本労働局 パワーハラスメントの例(人格否定・能力否定等) https://jsite.mhlw.go.jp/kumamoto-roudoukyoku/newpage_00427.html
- 厚生労働省 熊本労働局 パワーハラスメントの例(隔離・仲間外し・無視) https://jsite.mhlw.go.jp/kumamoto-roudoukyoku/newpage_00427.html
- 厚生労働省 熊本労働局 パワーハラスメントの例(業務外の私的雑用の強制等) https://jsite.mhlw.go.jp/kumamoto-roudoukyoku/newpage_00427.html
- 文部科学省 児童生徒のトラウマ体験後の反応(身体・行動の変化) https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/clarinet/002/003/010/005.htm
- Edmondson A. et al. Psychological safety: 定義と背景(レビュー論文) https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC7393970/
- Edmondson A. et al. Psychological safety: 組織成果(イノベーション・業績等) https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC7393970/