雨宿りの考古学 ep03 指輪の跡

京都・出町柳の古民家カフェ「土器と珈琲」。雨の日だけ開くその店で、考古学者の篠原睦美と店主の小野寺朔は、土器と珈琲を通じて過去と現在をつなぐ。

雨宿りの考古学 ep03 指輪の跡

睦美は店の扉を押し、雨の匂いと一緒に土器と珈琲へ入った。 朔が土器片を光にかざして、何かを確かめるように見つめている。 「いらっしゃいませ」と顔を上げた朔の目が、睦美を認めて少し和らいだ。

「これ、お客様が置いていかれたものですよね」

朔が差し出した土器片を受け取ると、睦美は光にかざしてじっくりと観察した。 昨日は気づかなかった細い線が表面に薄く浮かび上がり、二つの円が重なったような文様の中に、さらに細かい刻みが走っているのが見える。

「恋文かもしれません」

睦美がつぶやくと、朔は首を傾げた。

「土器に文字を刻んで、想いを伝えたという説があるんです」

朔は珈琲豆を計りながら、その話に耳を傾けている。 ミルを回し始めた朔の左手が、睦美の視界に入った。 薬指に白い跡。皮膚の色とわずかに違って見える。

朔が視線に気づいて、さりげなく手を引っ込めようとした。

「きれいな手ですね」

睦美が言うと、朔の動きが一瞬止まる。 ミルの音だけが静かに続き、雨が窓を叩く音と重なって、店内に独特のリズムを作っていた。

「昔、陶芸をやっていたんです」

朔が短く答えて、視線を豆に戻す。 睦美は土器片をもう一度光にかざし、文様の続きを探した。

「この模様、途中で途切れているんですね」

「割れた時に、失われたんでしょうか」

朔がドリップの準備をしながら聞いてきた。

「いえ、もともと未完成だったかもしれません」

睦美が土器片をポーチにしまおうとした時、万年筆が転がり落ちた。 朔が素早く拾い上げ、キャップの傷を見つめてから睦美に返す。

「大切なものですか」

「形見です」

睦美はそれだけ答えて、万年筆を鞄の奥にしまった。 二人の間に雨音だけが響き、窓の外を傘を差した女性が通り過ぎていく。 朔も睦美も、その人影には気づかなかった。

朔が厨房に戻り、土鍋の蓋を開ける。 湯気が立ち上り、出汁の香りが店内に広がった。

「今日は鯛めしです」

振り返った朔の顔に、柔らかな蒸気がかかって白く霞む。

「雨の日は、温かいものがいいですから」

睦美は発掘ノートを開いたが、ページの文字が頭に入ってこない。 土鍋から立ち上る湯気と、朔の手の動きばかりを見ていた。 鯛の身をほぐす指先が、丁寧で無駄がない。

朔が振り返ると、睦美は慌ててノートに目を落とした。 鉛筆で書かれた図面が、雨の湿気で少しにじんでいる。

「お待たせしました」

小さな茶碗に盛られた鯛めしが、睦美の前に置かれた。 箸をつけると、鯛の旨味と出汁が口の中で混ざり合い、底の方には薄くおこげができていて、香ばしさが舌に残る。

「美味しいです」

睦美が言うと、朔は小さく頷いて厨房に戻る。 食器を洗う水音が、雨音と重なって心地よい。

時計を見ると、もう五時を過ぎていた。 睦美は席を立ち、会計を済ませる。

「雨、止みましたね」

朔が窓の外を見ながら言った。 確かに雨は止んでいたが、空はまだ重く垂れ込めている。

「また降りますよ、きっと」

睦美が答えて、扉に手をかけた。 振り返ると、朔がカウンターを拭いている。 その左手の薬指が、照明の下で白く浮かび上がって見えた。

「その指輪の跡、最近のものですね」

睦美は朔の返事を待たずに、扉を開けて外に出た。 湿った空気が頬を撫で、路地の向こうで水たまりが光を反射している。

店内では、朔が自分の左手をじっと見つめていた。 薬指の白い跡を、親指でなぞる。

窓ガラスに残った雨粒が、ゆっくりと伝い落ちていく。 その音だけが、静かな店内に響いていた。

著者プロフィール

藍田 聴

藍田 聴

2025年より「雨宿りの考古学」を連載中。