研究室で、睦美は土器片を水道の下に差し出していた。茶色い泥が螺旋を描いて流れ落ち、破片の表面に細かな線刻が浮かび上がってくる。昨日の雨はまだ髪に残っているような気がして、指先で前髪を払った。
「また雨みたいだね」
同僚の声に振り返ると、スマートフォンの天気予報が差し出されていた。画面には午後から傘マークが並び、降水確率は八十パーセントと表示されている。睦美は小さく頷いて、再び土器片に視線を戻した。
破片を並べていくと、かつて一つだった器の輪郭がぼんやりと見えてくる。欠けた部分の方が多いけれど、残された線から全体を想像することはできた。洗浄用のブラシを動かしながら、昨日の古民家の匂いが鼻の奥で蘇る。土と珈琲。雨に濡れた木の匂い。
「珍しいね、最近よく外出るけど」
同僚の言葉に睦美は手を止めた。そういえば、いつもなら昼休みも研究室で過ごすことが多かった。土器片を乾いた布で拭きながら、自分でも理由が分からないまま「散歩」と短く答える。
正午を過ぎて、睦美は研究室を出た。空は薄い灰色で、まだ降り出してはいないけれど湿度が肌にまとわりつく。傘は今日も持っていない。昨日と同じように、濡れてもいいという気持ちがどこかにあった。
出町柳の商店街に入ると、八百屋の店先でビニールシートを掛ける音がした。睦美は昨日歩いた道を辿ろうとしたが、角を曲がったところで景色が違うことに気づく。見覚えのない古道具屋があり、その隣には小さな写真館が並んでいた。
写真館のウィンドウには、色褪せた結婚写真が飾られている。白無垢の女性と紋付袴の男性が、硬い表情で正面を向いていた。写真の隅に「昭和四十七年」という文字が見えて、睦美は立ち止まって見つめた。
最初の雨粒が頬に当たり、すぐに本降りになる。睦美は小走りで路地を進み、昨日の記憶を頼りに角を曲がった。古い町家が並ぶ通りは似たような景色で、どれが『土器と珈琲』なのか一瞬分からなくなる。
髪から雫が落ちて、白いシャツが肌に張り付いた。もう一つ角を曲がると、見覚えのある看板が目に入る。『土器と珈琲』の文字が、雨に濡れて少し滲んでいた。
戸を開けると、朔が顔を上げた。カウンターの向こうから無言でタオルを差し出してくる。睦美は礼を言いながら受け取り、濡れた髪を拭いた。
「今日は土鍋で炊き込みご飯を作ってます」
朔の声は静かで、昨日と同じトーンだった。睦美は鞄から新聞紙に包んだものを取り出し、テーブルの上に広げる。土器片が五つ、きれいに洗われて並んだ。
朔が興味深そうに腰を屈めて、破片の一つを指先で軽く触れた。 「これ、何か描いてありますね」 睦美は頷き、一番大きな破片を手に取る。
「線刻文といって、焼く前に引っかいて描いた跡です」
朔は別の破片を手に取り、光にかざして眺めた。 「これ、文字みたい」 睦美は首を傾げて、その破片を受け取る。
確かに文字のようにも見える線が、かすかに残っていた。 「もしかしたら、古代の恋文かもしれません」 冗談めかして言うと、朔が小さく笑った。
「昔の人も、今と同じようなこと考えてたんですね」
朔はそう呟きながら厨房に戻り、ドリップの準備を始める。湯を注ぐ音と雨音が重なって、店内は静かな水音に包まれた。睦美はカウンター席に移動し、朔の手元を見つめる。
その時、朔の携帯が震えた。画面を一瞬見て、そのまま裏返しに置く。左手の薬指を無意識にさする仕草が、昨日と同じだった。
「大学では、どんな研究をされているんですか」
朔が話題を変えるように尋ねた。睦美は土器片を指でなぞりながら、平安時代の生活様式について説明する。土器の形や文様から、当時の人々の暮らしが見えてくることを。
「欠けた部分の方が多いんですけど、残された破片から全体を想像するんです」
朔は珈琲をカップに注ぎながら頷いた。 「人の記憶みたいですね」 睦美はその言葉に、何か胸の奥が締め付けられるような感覚を覚える。
炊き込みご飯の香りが漂ってきて、睦美は時計を見た。午後三時を過ぎていて、雨はまだ降り続いている。朔が小さな茶碗によそった炊き込みご飯を差し出してきた。
「よかったら」
土鍋で炊いたご飯は、底の方に薄くおこげができていた。具材の椎茸と人参が、出汁の味を吸って柔らかい。睦美は黙って食べながら、この静けさが心地よいと思う。
「また雨の日に」
朔が言いかけて、すぐに付け加えた。 「あ、でも晴れの日も、時々開けてるんです」 睦美は立ち上がり、テーブルの土器片を新聞紙に包んで鞄にしまう。振り返らずに答えた。
「雨の日がいいです」
戸を開けると、雨はまだ細く降っていた。睦美が路地の角を曲がって見えなくなってから、朔は土器片が一つテーブルに残されていることに気づく。手に取って光にかざすと、睦美が気づかなかった模様が浮かび上がった。
二つの円が重なったような文様。朔はそれを見つめながら、携帯の画面を確認した。未読のメッセージが三件、同じ名前から届いている。
雨音だけが、静かに店内に響いていた。