雨宿りの考古学 ep01 雨の始まり

京都・出町柳の古民家カフェ「土器と珈琲」。雨の日だけ開くその店で、考古学者の篠原睦美と店主の小野寺朔は、土器と珈琲を通じて過去と現在をつなぐ。

雨宿りの考古学 ep01 雨の始まり

篠原睦美は考古学研究室のデスクで発掘調査報告書を書いていた。窓の外で雨が降り始め、ガラスに細かな水滴がゆっくりと筋を作っていく。キーボードを打つ指が止まり、画面には「第三層からの出土遺物について」という見出しだけが点滅している。

睦美は立ち上がり、棚から傘を取ろうとして、そのまま手を下ろした。 「篠原さん、まだ午前中ですよ」 同僚の声が背中に届いたが、睦美は振り返らずに「今日は早退します」とだけ告げる。研究室のドアを開けると、廊下の空気が冷たく頬を撫で、階段を降りる足音が妙にはっきりと響いた。

建物を出ると、雨は思ったより強く降っていて、髪がすぐに濡れ始める。傘を持たなかったことを後悔するでもなく、なぜか引き返す気にもならなかった。白いブラウスに雨粒が染み込んでいき、肌に張り付く感触が冷たくて、でも不快ではない。出町柳の方へ歩き始めると、アスファルトから立ち上る雨の匂いが鼻をくすぐった。

商店街を抜けて路地に入ると、人通りが急に少なくなる。古い町家が並ぶ通りは静かで、雨音だけが軒下で増幅されている。睦美は濡れた髪を手で払いながら角を曲がると、一軒の古民家の戸が開いているのが目に入った。軒先に小さな木の看板が出ていて、墨で「土器と珈琲」と書かれている。

雨の日だけ開く店なのだと、睦美は理由もなく確信した。

引き戸を開けると、土間の匂いが鼻に届く。湿った木と畳の匂いに、かすかに珈琲の香りが混じっている。 「いらっしゃい」 奥から男性の声がして、睦美は靴を脱いで上がり框に足をかけた。

土間から続く板の間を進むと、囲炉裏のある部屋に出る。二十代後半くらいの男性が土鍋の前に座り、木べらでゆっくりとご飯を混ぜていた。 「雨の日は、ゆっくり炊いた方が美味しいんです」 男性は微笑んで、睦美に座布団を勧める。

「小野寺朔と申します。濡れましたね」 朔は立ち上がって奥からタオルを持ってきて、睦美に手渡した。タオルは洗いたてで、太陽の匂いがかすかに残っている。睦美は髪を拭きながら、土鍋から立ち上る湯気をぼんやりと見つめた。

「お昼はまだですか」 朔の問いかけに、睦美は小さく頷く。研究室を出てから何も考えていなかったことに今更気づいた。朔は土鍋の蓋を開けて、炊きたてのご飯を木の茶碗によそい始める。

「味噌汁もありますよ」 小鍋から立ち上る湯気に、出汁の匂いが混じっている。睦美は差し出された茶碗を両手で受け取ると、温かさが掌にじんわりと伝わってきた。

箸を手に取り、ご飯を一口含むと、米の甘みが口の中に広がる。次の瞬間、睦美の目から涙がこぼれた。 「すみません、なんでだろう」 睦美は慌てて手の甲で涙を拭ったが、止まらない。

朔は何も言わず、静かに立ち上がって珈琲を淹れ始めた。豆を挽く音が部屋に響き、ドリップの水音が雨音と重なって、不思議なリズムを作っている。睦美は泣きながらご飯を食べ続け、涙で塩味が加わった味噌汁を飲んだ。

窓の外では雨が強まり、軒先から落ちる雫が一定の間隔で石を打っている。朔が淹れた珈琲の香りが部屋に満ちて、睦美の涙はようやく止まった。 「ありがとうございます」 睦美が顔を上げると、朔は優しく微笑んでいる。

珈琲を一口飲むと、苦味の奥にかすかな酸味があって、舌の上でゆっくりと広がった。 「美味しい」 睦美がつぶやくと、朔は嬉しそうに目を細める。

時計を見ると、もう午後二時を回っていた。睦美は財布を取り出そうとしたが、朔が静かに首を振る。 「雨の日の最初のお客様は、お代はいただかないんです」 朔の言葉に、睦美は戸惑いながらも頷いた。

「また来てもいいですか」 「雨の日なら、いつでも」 朔は玄関まで見送りに出て、睦美が路地の角を曲がるまで見守っていた。

睦美の姿が見えなくなると、朔は店に戻り、左手の薬指を無意識にさする。窓の外で雨足が一段と強まり、軒先の雫が激しく石を打ち始めた。朔はスマートフォンを取り出してメッセージを打ちかけたが、すぐに画面を消して、土鍋の片付けを始める。

雨音だけが、静かな店内に響いていた。

著者プロフィール

藍田 聴

藍田 聴

2025年より「雨宿りの考古学」を連載中。