不動産業を始めて十四年になるが、私は今でも事故物件が嫌いだ。嫌い、という言葉では足りない。正確に言えば、関わりたくない。
仕事でなければ、絶対に関わらない。話も聞きたくないし、ましてやその部屋に入るなど論外だ。だが、この仕事をしている以上、避けて通ることはできない。
事故物件とは、住んでいた方の死後の話だ。
不動産業の私たちが、一番はじめに関わることが多い。
発見、通報、特殊清掃の手配、リフォーム、売買、賃借など様々だ。勿論、所有者、相続人の財産にも関わる。
発見の状態によっては、物件価格にも影響する。そこで念入りに調査、査定を行わないといけない。逆に賃借人、買受人に向けて、一番重要な仕事と言っても過言ではない重要事項説明書の作成義務も負う。
つまりデメリットの説明内容もより詳しく記載する。
その一つがよく目にする……「告知事項あり」
その為、現地に入り、ご遺体のあった場所を視認し状況確認が必要になる。
自然死だったのか、自殺だったのか、はたまた殺人……。
国のガイドラインに沿って、きちんと説明内容を記載していく。ここで最も辛いのが、その現場を独りで調べること。
どことなく重い空気の中黙々と仕事をするのが、普段から怖がりの私にとっては、トラウマレベルに嫌だ。
尋常じゃない腐敗臭が漂うときもある、自殺の現場であれば死に至るまでの動線が、ストーリーとしてハッキリ見える場合もある。リアルな現実がそこにはこびり付いている。
宅建業を営む者にとって、逃れることのできない仕事。
それが事故物件の現地調査。
最初は、本当に軽い気持ちだった
芸人としての先行きに不安を感じ始めていた頃、私は御徒町の不動産会社に入社した。賃貸と売買を扱う、ごく普通の街の不動産屋だ。
芸人と不動産。まるで交わらない二つの仕事を、私は同時に抱えることになった。「自分にしかできないことを見つけたい」その一心だった。
だが現実は、ドラマで見るよりも想像以上に地味だった。
図面を描く。写真を撮る。物件情報を入力する。同じ作業を繰り返すだけの日々。
客と話すこともなく、ただ画面の中の部屋だけを見続ける時間。半年が過ぎた頃、上司に呼ばれた。
「明日から接客な」
あまりにも唐突だった。準備もないまま、私は現場に出ることになった。それが、事故物件との最初の接点になるとは思ってもいなかった。
最初の客は、三十代後半の女性だった。落ち着いた服装で、どこにでもいそうな人だったが、目の奥だけが少し疲れていた。
家賃改定の通知が届き、引っ越しを決めたという。希望条件は家賃六万円、風呂トイレ別、独立洗面台。正直、厳しい条件だった。だが私は「難しい」とは言えなかった。初めての客だったからだ。
業者間サイトを開き、物件を一つずつ洗っていく。築年数、駅距離、設備、間取り。条件に合うものはほとんどない。時間だけが過ぎていく。気づけば一時間が経っていた。女性は何も言わず、ただ時折、指先で膝を叩いていた。その不規則な音が妙に気になった。
ようやく一件に辿り着いた。鶯谷。駅徒歩三分、鉄筋コンクリート。条件は揃いすぎていた。その時点で、私はわずかに違和感を覚えた。
図面は異様だった。写真がない。鉛筆で書かれた手書きの間取り。線が妙に太く、消し跡が残っている。「住所は内見時にお伝えします」とだけ書かれていた。
理由は分からない。だが告知事項はない。私はその物件を案内することにした。女性も「ここ見てみたいです」と言った。
管理会社に内見予約の電話を入れると、無愛想な上、酒やけしたような声の初老の男性が対応した。
時間と住所、詳しいマンション名も添えて現地に……。
不気味なマンション
現地に着いた瞬間、空気が変わった。駅から近いはずなのに、人の気配が薄い。音が遠い。建物は細長く、外壁はくすんでいる。窓はあるのに生活感がない。女性が小さく言った。「……静かですね」その言い方は、良い意味ではなかった。
不気味にその声が反響しているのも初めての内見業務をする私にとっても心地よくはなかった。
エントランスに入ると、空気が一段重くなった。ポストにはチラシが詰まり、風で擦れて音を立てている。シャッ、シャッ、と。不規則で、誰かが触っているような音だった。私は一瞬振り返ったが、誰もいなかった。
共用部の伝言板に白い紙が貼られていた。
「ただいま」
黒いペンで大きく書かれている。筆圧が強すぎて紙が破れている。インクも滲んでいる。よく見ると、同じ線を何度もなぞった跡があった。消えないようにしているように見えた。私はすぐに目を逸らした。見続けてはいけない気がした。
その下に消した跡があった。同じ場所に、同じ文字。「ただいま」。上から書き直されている。新しい文字の方が歪んでいた。まるで、前よりも近い位置から書かれているようだった。紙に顔を近づけて書いたような圧迫感があった。かすかにインクの匂いがした。
三階へ上がるにつれて、空気が冷えていく。女性が途中で立ち止まった。「……寒くないですか?」私は古い建物だからと答えたが、自分でも納得していなかった。
夏場だったので、冬だともっと冷えるのかなとも感じた。
201号室に入る。何もない部屋。だが空気が重い。息が浅くなる。気圧が変わったのかキィン、と耳鳴りがした。女性も少し不快な顔をしていた。
「301の方が安いですよ」
背後から声がした。振り返ると管理人が立っていた。距離が近すぎた。足音は聞いていない。
なぜこの部屋ではなく、安い賃料の部屋を勧めてきたのかも少し違和感を感じた。
管理人は「201、事故物なの〜。301も事故物だから、同じ事故物だったら安い方がいいでしょ〜」
何か慣れている上、簡単に説明する管理人に対してお客さんが驚愕しているのを、その表情から読み取れた。
「えっ、告知事項ありにしないんですか?」
と問うと、管理人からは一人賃借人住んでいるから大丈夫でしょ、と明るく交わされたのを今でもはっきりと覚えている。
そうして、201より賃料の安い301号室に入る。
事故物件の部屋の内容
明るく綺麗だった。だが静かすぎる。外の音が完全に消えている。女性が言った。「……音、しませんね」
確かに、場所は繁華街のど真ん中。
それにしても静かだった。本当に静かだった。
部屋の奥の収納を開ける。暗い。奥行きが深く感じた。
カタ、何か音がしたようにも感じた。
女性が息を止める。管理人は何も反応しない。
「どんな風にお亡くなりになったんですか?」
私は聞いた。
管理人は女性に聞こえないように、細かく詳細を私に話し始めた。
五年前、老人が亡くなった。夏だった。死因は病死、扇風機が回っていた。エアコンをつけないで、熱風だけが、ご遺体に当たり続け、腐敗が進みに進み、頭部以外が溶けて液体化していた。
和室の畳には体液が沈着、匂いを無くすのにも一苦労だったそう。
以前設置されていたエアコンにも匂いが沈着したのだろうか?
新品のエアコンが備え付けされていることに、妙に納得できた。
そこから、何人か入居したが、その都度、夏場に入居者が亡くなることが多く、つい最近まで住んでいた女子大生が、老人が亡くなった同じ季節に、突然大声を張り上げて近隣からクレームが多数発生していた。
緊急連絡先の父親に連絡すると、娘への電話が繋がらないようで、心配し上京。部屋に入ると女子学生が、ずっと威嚇してきた。発狂しながらで包丁を振り回していたそう。
部屋はゴミと糞尿で不衛生な感じだった。
家にいないときは、マンション内の至る所に落書きをするので、それを管理人が消すのも大変だったそう。
父親が半ば無理やり娘を実家に連れ戻し、マンション内には平穏が訪れたという。
管理人があまりに話し慣れている感じも嫌だったが、それより内見前に説明しろよと私は思った。
こんな部屋誰が借りるんだよとも思った。
しかし、それでもこの部屋を念入りにチェックしている女性客。
玄関先の小さな収納の奥にお札を剥がしたような跡を発見し、女性は大きくため息ついた。
重苦しい内見の中、暗闇の中に、気配を感じた。形は分からない。ただ、いるのかな〜と感じる程度だが、二度とこの場所に戻ってくることはないだろうと確信していた。
エントランスの入居者への伝言板に貼られた「ただいま」と書かれた紙は、くだんの女子学生が書いたのだと管理人は言い、その紙を剥がす。
剥がした下には、沢山「ただいま」と書いた痕跡が残っていた。
内見は終わった。外に出ると空気が軽い。女性は大きく息を吐いた。私は振り返らないようにマンションに背を向けて不動産屋に車を向けた。
途中「何か」お持ち帰りしていると嫌だったので、近くのコンビニで塩を購入し、背中にかけたことを今も忘れない。
果たしてその部屋を女性客は借りるのか?
次の日、客の女性から301号の部屋を契約したいと連絡が来た。
内心、マジかよと思った。
入居申込書の勤務先欄を確認すると、看護師さんだった。私の憶測だが、死を間近見る人にとっては、事故物件ってさほど気にしないとの結論が出た。
後日談
一ヶ月後、同じマンション内で自殺があった。
301ではなかったので安堵した。
近くで別の内見があったので、興味本位でエントランスの伝言板を覗くと、以前管理人が剥がした紙と同じ場所に「ただいま」と書かれた紙があった。
一体誰が書いたのだろう。
ニ年後の更新の際、女性客から連絡は来なかった。
一体今どうしているのだろうか?
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