2025年11月、私は30歳になる。すでに誕生日を迎えた同級生は、口を揃えて言った。
「もう30歳に“なっちゃう”ね」
私の周りの同性で、30歳を迎えて喜んでいる人はいない。そんな反応を見て、私も「怖いねえ」なんて調子を合わせる。けれど、本心では友人たちに100%共感できなかった。
まだ誕生日まで日があるから、まだギリギリ20代だからと高をくくっているわけではない。
一番強いのは、疑問だ。29歳までと30歳の違いは何だろう?
もちろん、20代から30代というくくりになるのは分かる。しかし、その事実は嘆くほどのものだろうか?
「変わらない」ことへの焦り
ここで言いたいのは「年齢なんて数字でしかないのだから、気にするな」ということではない。逆張りして強がっているわけでもない。
今までも、同級生との会話で年齢を自虐的に扱うことはあった。20歳では「もう大人だね」、25歳では「アラサーだ」、29歳では「20代最後の年」が誕生祝いの枕詞。
29歳では、このワードと自虐の回数があからさまに増えた気がする。
確かに、幼少期のように無邪気に誕生日を喜ぶことはなくなったと思う。
以前は誕生日を指折り数えて待ち構えていたけれど、今では年齢を重ねるたびに少しだけ、プレッシャーみたいなものを感じる。それが自虐につながっているのかもしれないし、同級生たちの悲観を他人事だと思えない理由かもしれない。
では、“プレッシャーみたいなもの”の正体は何か?
友人たちが次々に20代から30代へのラインを踏み越えるのを見送り、いよいよ順番がやってくる私の中で膨らんだ感情は「変化しない」ことへの焦燥感だった。
20代前半までは、学校があった。進級や進学で物理的にステージが変わるし、できることもどんどん増える。教科書が変わったり行動範囲が広がったりすると、レベルアップした感覚が味わえた。
社会人1年目、2年目も、新しい仕事を覚えてレベルアップしていく。
けれど20代後半に差し掛かったころから変化は小さくなっていって、「こんな毎日がずっと続いていくのかな」という安定感とふんわりした絶望が日々存在感を増す。自分や環境が変化することは大変な一方で、とても充実していたのだと気付く。
結局、今の私は10代で憧れた小説家にはなれていないし、現実的な選択肢として目指した公務員にもなっていない。重要なポストにつくわけでもなく、何年も同じような仕事を続けている。
結婚してマイホームもあるけれど、時間がたてばどちらも日常だ。家はパートナーの名義なので、いわゆる「一国一城の主」というわけでもない。
「何者か」になった事実も、スキルアップした実感もなく年を取る。転職も、結婚も、妊娠も、出産も、何ひとつゴールなんかではなくて、大人としての責任だけが増えていく。
そんな焦りが、「30歳に“なっちゃった”」という表現に滲んでいる気がする。
「変わらない」から愛おしいもの
そんな焦りがある一方で、変わることが怖いと思う自分もいる。
本当は、いつまでもパートナーと二人で気楽に過ごして、週末には友人と遊んだり旅行に行ったりして自由に暮らしたい。キャリアアップしなくても、不自由なく生活できるくらいの収入がキープできればいい。そう思えるくらいには、今の生活を気に入っている。
「ずっと今のままがいい」と特に強く感じるのが、中学校からの友人と過ごす時間だ。
今はそれぞれ関東と関西に住んでいて、学生時代のように気軽に会えない。それでもずっとLINEが途絶えなくて、1〜2か月に一度遊んでいる。
どこかへ旅行へ出かけることもあれば、ただ漫画やアニメを見るだけの時もある。ホテルにロングステイして、好きな作品を見て、感想を言い合うだけ。
13歳の時から変わらない関係は、今も楽しいし落ち着く。共通の趣味の話を同じ熱量でできるのは、今も昔も彼女だけだ。
彼女にすすめられて始めたソーシャルゲームは、気づけば10年以上続けている。ゲーム自体が好きなのはもちろんだけれど、彼女とのつながりのひとつとして続けている部分もあると思う。
しかし、もしもどちらかが漫画やアニメから離れたら、共通の話題にはしづらくなるだろう。どちらかが子どもを授かったり、今よりも仕事が忙しくなったりしたら、会いにくくなるかもしれない。
新しい趣味や妊娠・出産、キャリアアップは、どれも単体で見ればポジティブな変化。しかし、それらをきっかけに大切な友人と離れるかもしれないと思うと不安になる。環境が変わっても疎遠になることはないだろうと信じているけれど、やっぱり怖い。
ステップアップしようとする気持ちとは別に、変わらないからこそ得られる安心感は確かにある。今までの30年間で積み上げてきた“定番”や“日常”は、前進することへの同調圧力みたいなものから避難できる安全地帯なのかもしれない。
現状維持か、変化を受け入れるか
そう、変化しようと思う気持ちは間違いなく自分のものだけれど、周囲からの同調圧力も確実にある。もしもSNSや交友関係を断って、外から入る情報を完全にシャットアウトしてしまったら、きっと今ほど焦らないのではないかと思う。
もちろんそんなことはできないと分かっているから、知り合いや芸能人の結婚・出産報告を見るとザワザワする。
特に悩ましいのは妊娠・出産で、母子ともに安全な出産ができる年齢はどうしても限りがあるし、産んで終わりではない。「子育てをするなら体力のあるうちに」とはよく聞く話だし、選択の時は刻一刻と迫っている。
今すぐ進むべきか、まだこのままでいいのか。悩んでいる時に出会ったのが、1996年に出版された江國香織さんの小説『きらきらひかる』だった。
同性愛者で恋人がいる夫・睦月と、精神疾患を患う自称「アル中」の妻・笑子の物語。
身体の関係はないけれど、ただお互いを好きだから一緒に暮らす結婚生活を描いている。しかし事情を知らない両親や友人からは、「早く子どもを授かったら?」というプレッシャーがかかる。
作中で笑子が「私はこのまんまでいたいの」「どうしてこのままじゃいけないのかしら」と言う場面に、涙が出るほど共感した。
本当は変わりたくないけれど、周りの人や環境が、自分の体が、変わることを強要しているように感じて息苦しい。今の仕事も友人も生活リズムも、すべてが大切でしっくりきているのに、どうしても変わらなければならないのだろうか?
けれど変わらないままだと、いつか後悔することになるかもしれない。だから、焦ってしまう。
しかし、そんな思いを落ち着けてくれたのも『きらきらひかる』の一節だった。泣いたり怒ったりしながら「このままでいたい」と繰り返す笑子に、夫の睦月はこんな思いを抱いていた。
*このままでいたい、とあんなに願うということは、笑子だってどこかで感づいているにちがいないのだ。いつまでもこのままではいられないということに。
確かにそうだ、と腑に落ちた。私は確実に年を取るし、身体も心も変わっていく。
まだ実感はないけれど、周囲の人を見ていると分かる。結婚や妊娠、キャリアアップを通じてライフステージが変わり、普段の会話の内容が変わり、服装や持ち物も変わっていく。
頭では理解しているけれど、心が追い付いていないのかもしれない。だから、焦りながらも私はまだ、足踏みをしている。
嘆きながら、進んでいく
29歳になりたての冬、大学の同期2人とディズニーリゾートへ行った。
2人とは、大学1年生の冬にもディズニーへ行っている。お金がないのに一泊二日で、ランドとシー両方のチケットを買った。その分、移動は夜行バスで節約した。
それから10年。もう一度同じメンバーで行こうという話になった。
金曜の夜、急いで仕事を終えて落ち合い、駅弁を食べながら新幹線で前乗りした。その金銭的なゆとりと、夜行バスでは翌日に響くという共通認識が「10代の頃とは違うよね」なんて笑いあいながら。
パーク内では、思い出の写真を再現して回った。写真をお願いしたキャストさんに「10年前の今日も、3人で来ていたんです」と話したら、私たちよりも熱心に背景や角度にこだわって撮影してくれた。お祝いのカードまでいただいて、なんだか感動してしまった。
写真を見ると、10年前とそれほど変わっていなかった。むしろ昔の写真がものすごく子どもに見えて、私たちなりにちゃんと大人になったんだねとまた笑った。
最終日の午後にはヘトヘトになって、パーク内のレストランで血眼になって座席を探し回った。陣取った席からいつまでも立ち上がる気配はなく、足腰が痛いなんて言いながら、3人とも「また10年後も来ようね」と意気込んでいた。
10年後の私たちはきっと、「もう40歳になっちゃった」と言いながら身体や生活の変化を嘆くのだろうと思う。もしかしたら新しい心配事が生まれて、焦ったり悩んだりしているのかもしれない。
どんなに嫌がっても、年を取る以上変化は避けられない。けれど、一緒に歴史を振り返ったり変化を嘆いたりする相手がいれば、少しは受け入れられる気がする。
だから私は、心の底から共感していないとしても調子を合わせて嘆く。これからもずっと、「もうこんなにたったの?」「年取ったな〜。」なんて言い合いながら生きていきたい。
※引用文献
* 江國香織(1996)『きらきらひかる』 新潮文庫.