生きづらい日々をお茶で整えた30代。

茶の癒しと力に出会い、生きづらさを乗り越えた私の30代。日常のストレスや不安を、温かな一杯で静かに解きほぐす心の処方箋。お茶が教えてくれた、自分らしく生きるヒント。

生きづらい日々をお茶で整えた30代。

各地でお茶を淹れる日々の中で見つけた「ゆらぐ自分」との付き合い方。

17年前。

一杯のお茶に心を動かされ、駅のホームでぽろぽろ泣いた日をきっかけにお茶の世界へと飛び込みました。

生き辛かった日々を救ってくれたのも、足りなかった部分に気づかせてくれたのも、時折揺らぐ心を整えてくれるのも、「煎茶」という存在。

お茶という存在に救われて、生きてきたといっても過言ではありません。

急須と茶器をリュックにつめて、各地でお茶を淹れ続けた日々の中で、“煎茶”と“人”が教えてくれたこと、そして気づかされたこと。

モノクロの世界で唯一肯定してくれた“煎茶”の存在

私にとっての「お茶」は「小さい頃から飲んでいる好きな飲み物」でした。それ以上でも以下でもなく、ましてやそれを仕事にするなどとは1mmも想像していませんでした

招かれる場所でお茶を淹れ、足を止めてくれた人に“一杯のお茶”を手紙のように大切に届ける。私がそんな活動をしようと思い立ったのは、24歳のころ

仕事に疲弊し、理想と現実を目の当たりして心が萎れ、世界から色がなくなったようで苦しく感じ、クリニックに通うようになった時期でした。

きっかけは、ある日、京急線のホームで飲んだマイボトルに入っている“いつものお茶”。

そのお茶の味わいがあまりにもやさしく、その日の天候と自分にぴったりの温度と味わいで、心のガチガチになった部分にすっと届いてきたのです。

“どこにも逃げ場がないように感じていた世界の中で、言葉でも音楽でもなく、お茶だけが唯一、自分を肯定してくれた

そんな感じたことのない感動がもくもくと満ちてきて、気が付くと涙が込み上げていました。

誰だって心が弱る時はあるけれど、時に言葉が入っていけない領域でも、なぜかお茶なら軽やかに届けられることがある

そんな想いから、ひとりひとりの人生に寄り添い、いろんな場所でお茶を淹れる活動が始まりました。

急須でお茶を淹れると、心の調子があぶり出される

朝、鏡を見ると、「顔色が冴えない」とか「むくんでるな」とか、からだの体調がわかるものですが、お茶を淹れてみると、心の調子が手に取るように見えてきます

20年程、毎朝、同じお茶を淹れているのですが、それでも「昨日淹れた味のほうが好みだったな…」という日もあって、そんな時は決まって、ゆらいでいる時なのです。

不安なことがあったり、自分を大切にできていなかったり、理由はその時々ですが、お茶を淹れることで、自分の状態を体感することができる。

思わず「これは、ライフハック!」と大声で言いたくなるほど、自分自身が助けられています

誰かを好きになったり、子育てをしたり、いろんな人と関わって仕事をしたり。

私たちの日常は様々な感情と折り合いをつけていく繰り返しです。

だからこそ自分自身の心をいつでもちゃんと理解したいものですが、これがなぜだかとても難しい。

お茶を淹れるという暮らしの中のひと手間で、今の自分が理解できる。そんな、お茶の魅力をもっと多くの人に知ってもらいたいなあと思います。

SNSの世界に引っ張られすぎない。“今”と“ここ”に戻るためのお茶時間

もともと私は、新しい情報を知ることが好きで、雑誌やラジオを隅々までチェックしていたいタイプでした。

今ではその対象がSNSとなり、行ったこともない素敵な街並みや会ったこともない人の幸せに毎日のように触れています。

心が元気な時は「すてき」「私もがんばろう」などと思えたりするものですが、ちょっと元気がない時には、つい「いいなあ…それに比べて私は……。」という思考になってしまうこともしばしば。

ひと昔前なら、目にすることもなく人生を終えたはずの風景や他人の暮らしが、いつの間にか、大切にするべきリアルな暮らしの比較対象になっている。今の時代ならではの悩みなのかもしれません。

SNSの世界に引っ張られすぎて、自分だけが何もできていないような不安に駆られる時。
お湯を注げば、どんな場所でも山やお茶畑を直に感じられるお茶の時間に何度も救われました。

計りもタイマーも使わず、感覚にゆだねると自分が戻ってくる

お茶を淹れるという行為には、いくつかの手順があります。

ちょっと量や時間を間違えると味わいが変化してしまうので、おいしいお茶を淹れようと思うと「今」と「ここ」だけにフォーカスせざるを得なくなります

結果、「色々あるけれど、ひとまず横において、お茶を淹れよう」という思考のスイッチオフが、自然とできてしまうのです。

より、深くお茶の時間に浸りたい時には、あえて計りやタイマーを使わず、袋に書かれているお茶の情報も隠し、感覚にゆだねて、自分自身をもてなすことだけを考えます。

そうすると、一つ一つの動きに全ての感覚が集中するからでしょうか。いつの間にか雑念が消えて、頭がクリアに

加えて、お茶の味わいはジュースやコーヒーなど他の飲み物と比べれば、繊細。ちゃんとお茶を感じ取ろうとすると、五感を研ぎ澄ませる必要があります。

こういった一連の流れが、時に現実の世界から自分を強制的に切り離してくれる貴重な存在になるのです。

「お茶は世界で一番短い旅」としばしば言われますが、まさにそんな数分の体験の中で、ニュートラルな自分が戻ってくる。

自分を見失ってしまいそうな時には、いつも急須とお茶に頼り切りです。

「常に完璧を目指さなくてはいけない」という価値観が崩された一杯

リュックに茶器を詰め、福岡を訪れた時。

その日は、とある商業施設でお茶ふるまいをするイベントの2日目でした。前日から、200人程の方とお話をして、お茶を淹れていたからか、終盤となる頃には頭がぼーっと。

そんなタイミングでいらしてくれたのが、毎回イベントに顔を出してくれていた常連の年配の女性でした。

いつも会うお顔に安心してしまった私は、電気ケトルのお湯が思ったよりも熱いことに気が付かず、その結果、淹れたお茶の味わいがぶれぶれに。

味見をして浮かんだのは「失敗した」という言葉でした。

想定よりやや苦みがでてしまっていたので「ごめんなさい、もう一回淹れさせてください」とお願いをしようとしましたが、時すでに遅し。女性の手元の茶杯は空になっていました。「ど!どうしよう!」と思っていると…

「うん!昨日飲んだ味わいとはまた印象が違う。でもこういう今の気持ちが乗っているお茶の味を体験したいのよね。毎回こういうのが飲みたい!」とニコニコ。

あまりに目をキラキラさせて喜んでくれるので、驚いたことがありました。

その時思いだしたのは、淹れ方などの紙を一切読まず、自分流にお茶を淹れてみたらとてもおいしかったことをきっかけに、お茶好きになった友人のこと。

「おいしくはいらなくても、今日の私の味わいは“これなんだ”って思えるから、楽しいんだよ」と、どんどん茶沼にはまっている彼女を見て、おいしさの定義は必ずしも完璧であることではないのだと痛感したのでした。

いつの間にか、自分好みのおいしかったことを「おいしい」だけに縛られて、自分が想定した整った味わいを引き出すことだけを目指していた私。

完璧ではない自分も受け入れてもらえることがあるというお茶を通しての学びは、生きるうえでも、もっと軽やかに、自由であって良いと教えてくれました

お茶が教えてくれた「失敗は存在しない」。それもあり思考がちょうど良い

日常の小さな心のゆらぎと向き合う時、思い返せばいつも、お茶を淹れていました。

私にとってお茶を淹れることは、意識して自分に贈る「余白」でもあり、「自分を取り戻すための選択肢」

淹れ方を細かく気にされる方も多いお茶の世界ですが、狙っていた味わいが出ない体験も(こそ)面白いし楽しいもの。これは人生も仕事も同じことのように思います。

自分好みの味わいにならなかった朝も「今日の私。これも良い」と思えるようになると、力が抜けて楽しくなるもの。

お茶はいつも「今、あなたが持っているものも意外と良いよ」ということ、そして自分自身に目を向けることのあたたかさを教えてくれます。

家族、育児、夢、恋愛、結婚、介護、仕事。
生きていると様々な場面に向き合うことが増えますが、どんなシーンでも、注力すべきは「自分を満たすこと」ではないかと思います。

自分が満タンでないと、愛を渡すこともできないし、何かを大切にすることもできないからです。

ここまで読んでくださったやさしい皆さん。
心が揺らいだ時には、自分にゆるっと、お茶の時間をプレゼントしてあげてください。

そして、余裕がある日には、あなたの大切な人にも、お茶を淹れてあげてください。

著者プロフィール

茂木雅世

茂木雅世

幼い頃から急須でお茶を淹れることが大好きだった生粋のお茶っこ。20代からリュックに茶器をつめ、全国各地で急須でお茶を淹れる活動をスタートさせる。近年は誰もが気軽に煎茶を愉しむ「ゆる煎茶」を発信しながら、「ホッとする時間」を軸に企画や執筆などを行う。FMヨコハマ「NIPPON CHA・茶・CHA」では2013年より番組MCをつとめる。著書に「東京のホッとなお茶時間」「東京のおいしいボタニカルさんぽ」。煎茶道東阿部流師範。身長152cm・一児のワーママとして低身長・ママコーディネートも研究中。