デザイン思考の基本とは何か
デザインを重視する企業群は、市場平均を大きく上回る成果を示してきました。 研究データでは、Design Management InstituteがまとめたDesign Value Index(2014年)で、デザイン主導企業が10年で市場平均を合計219%上回るリターンを示したと報告されています[1]。さらに経営コンサルティングの分析でも、マッキンゼーが2018年に上場企業約300社を対象に実施した調査で、デザインの成熟度が高い企業ほど収益成長が速く、株主総利回り(価値創出)でも優位という傾向が示されています(成長・価値創出ともに約2倍)[2]。数字は企業の話に見えますが、編集部が各種データと現場の実情を照らし合わせると、根っこにあるのは**「人に向き合い、小さく試し、学び直す」**というごく基本的な姿勢でした。
聞こえは華やかでも、やることは地味です。専門ツールを覚えるよりも、会議の入り口で問いを正しく据え、紙とペンで可視化し、短い時間で試作品をつくってみる。つまりデザイン思考の基本は、私たちが毎日やっている仕事や暮らしの段取りを、少しだけ「人基点」に並べ替えることなのです。キャリアの節目に差し掛かり、個人戦からチーム戦に移るゆらぎの世代にこそ有効な、現場で回るやり方をお届けします。
デザイン思考は、アイデア発想のテクニック集ではありません。医学文献のような厳密さを装うより、実務で機能する定義に絞りましょう。編集部では「人を起点に問題を再定義し、発散と収束をくり返しながら、可視化と試作で学習を早める思考とプロセス」と捉えています。ここで言う人とは、顧客やユーザーだけでなく、同僚、取引先、そして自分自身も含みます。
実務では、ユーザー理解を深めるほど解決の質や意思決定の速度が高まるとされ、共感(エンパシー)は観察・インタビュー・行動ログの解釈といった具体的な情報収集の総称として位置づけられます[3]。集めた情報は、ただ並べても意味がありません。壁一面にメモを貼り、似た行動や感情を近づけ、違和感のある点を残す。いわゆるアフィニティ・ダイアグラム(KJ法)で意味のまとまりを見出し、そこから**「本当に解くべき問い」へ問題を再定義**します[4]。
再定義の後は、解を一つに決め打ちしないことが肝心です。発散の段階で大胆に数を出し、収束で現実解へ絞る。この往復に、手と体を使った**可視化(スケッチ、紙のモック、簡易シナリオ)**を挟みます[5]。最後に小さく試す。プロトタイプとテストは、完成品の手前ではなく、学びを最大化するための手段です[3]。うまくいかないのが前提。だからこそ学べるのです。
5つのステップを仕事に落とし込む
手順を覚えるより、日々の会議や企画書作成にどうつなぐかが重要です。ここでは「会議が長いのに決まらない」という、よくある悩みをケースに、共感→定義→発想→試作→テストを1本の流れとして示します。
共感:当事者の一日をたどって痛点を確かめる
会議の迷走には理由があります。事前準備の不足、参加者の目的のズレ、情報の非対称、意思決定権限の曖昧さ。推測で語らず、参加メンバーそれぞれの一日を5分で描いてもらいましょう。開始前の慌ただしさ、会議中に開くタブ、チャットでの裏コミュニケーション、終了後に起きるフォローの二重化など、細部に痛点が潜んでいます。ここでのゴールは「早く解決案を出すこと」ではなく、事実を揃えることです。発言できない人にメモで観察を渡してもらう、終了後の5分で感情の起伏を記録するなど、小さな証拠集めが効いてきます。関連する基礎はユーザー調査入門でも解説しています。
定義:問題文を一文にまで削ぎ落とす
集めた断片を壁に貼り、似たもの同士を寄せるとパターンが見えます。たとえば「情報がバラバラ」「ゴールが曖昧」「決める人がいない」「決めた後が動かない」。ここで誰のために、何を、なぜ今、どんな制約の中で解くのかを一行にまとめます。例として「在宅・出社が混在する水曜10時の定例を、資料探しゼロ・60分で意思決定まで完了する場に変える」。このレベルまで絞られると、解の質が一気に上がります。問いの立て方は問いを磨く技術が参考になります。
発想:数を出す前に“視点”を変える
多くのブレインストーミングが失敗するのは、数を出す前に視点が固定されているからです。参加者に「新人」「お客さま」「経営層」「過去の自分」など立場カードを配り、各視点で3分ずつアイデアを書き出すと、発想の幅が跳ね上がります。発想段階では、採算や工数の話を一時停止し、「もし〜なら?」と条件を反転させることが効きます。出し切ったら「実装1週間以内」「ツール追加なし」「他部署巻き込みOK」など現実の制約で絞り込み、上位の組み合わせ案をつくります。発想のファシリテーションはブレストの回し方に詳しい手筋があります。
試作:話し合いを“モノ”にする
会議の議事メモを改良案の紙モックに変えましょう。たとえば新しい定例の運営なら、台本と画面遷移をA4紙で作るイメージです。冒頭30秒の「今日決めること」のアナウンス、共通資料のリンク、意思決定フローの分岐図、終了前のアクション確認テンプレート。これらをスライドにする前に、手書きでつくるのがコツ。手で触れる境界面があるだけで、議論が抽象から具体へ降りてきます[5]。
テスト:小さく本番で、すぐ学ぶ
完璧な設計より、小さく本番で試すほうが学びは早い。次の定例を1回だけ新運営で回す。その場でタイムキーパーに滞留時間を計測してもらい、終了後に参加者3人へ5分のミニインタビューを実施。「迷った瞬間」「楽だった瞬間」「戻したい点」を聞き取り、改善を次週に反映します。デザイン思考の基本は、ここまでを短い周期で回していく粘り強さにあります。
よくある落とし穴と、やさしい回避策
最初の壁は「すぐ解決案に飛ぶクセ」です。良かれと思って提案を重ねるほど、論点が散らかります。ここは勇気を出して、最初の15分をひたすら観察と事実の共有に使うルールを敷きます。事実の地盤が固まると、案は自然に立ち上がります。
次の壁は「正解を探し続ける完璧主義」。正解が見つからないなら、正解が残っていないほど現場が変化していると理解し、仮説を小さく試すほうに舵を切ります。テストでうまくいかなかったことは、能力の不足ではなく、仮説が現場に合っていないという発見です。
三つ目は「顧客の声がないのに顧客のためと言ってしまう」問題。社内の推測だけで議論しないために、たった3人でいいから現場の声を聞くと決めておきましょう。メール一本、5分の通話、チャットでのやり取りでもかまいません。「こうしてほしい」よりも、「どんな場面で困ったか」「その時どう切り抜けたか」といった具体の話を集めると、解決の方向が自然に定まっていきます。
最後に「言葉が硬すぎて伝わらない」問題。専門用語は悪ではありませんが、会議に来た人が同じ意味で受け取れるかを常に確かめます。例えば「アラインメント」と言うたびに、「つまり今日は何が一致すれば成功?」と日本語で言い換える。小さな翻訳がチームの速度を上げます。会議運営の基礎は議題設計のコツも参考にしてください。
チームで回すための60分実践セット
忙しい現場では、長時間のワークショップは現実的ではありません。そこで、編集部が検証した60分のデザイン思考スプリントをご紹介します。準備はA4用紙30枚、付箋少々、ペン、タイマーだけ。オンラインなら共同ドキュメントとビデオ会議があれば十分です。
最初の10分で目的と制約を読み合わせ、「誰のために」「いつまでに」「どんな条件で」を一行にします。次の10分で観察メモを共有し、反証も歓迎する空気を明示。続く15分で視点を入れ替えながらアイデアを量産し、5分で現実の制約を当てて上位案を3つに絞ります。次の15分で紙モックをつくり、最後の5分で次回テストの方法と指標を決めて終了。ここまでを一気に駆け抜けると、翌週の行動が驚くほど具体になります。タイムキープと記録は別の人が担い、ファシリテーターは議論の交通整理に集中。途中で意見が強くぶつかったら、紙に描いて確かめることを合言葉にします。
この60分セットは、新サービスの初期案づくり、社内手続きの簡素化、営業資料の再設計、チームのオンボーディング刷新など、多用途に展開できます。家庭でも応用可能です。たとえば「朝の支度に毎日30分かかる」をテーマに、観察で実態を確かめ、障害物を一つずつ取り除く。通園バッグの定位置、翌日の服の仮置き、朝食の選択肢を固定する小さなプロトタイプ。1週間のテストでデータが撮れれば、次の改善は自然に見えてきます。
キャリアの再設計にも効く“基本”
デザイン思考の強みは、曖昧な問いに向き合えることです。たとえば「この先、いまの会社で役割を広げるか、転職して挑戦するか」。これは正解のない問いですが、等身大のプロトタイプなら作れます。社内で半年限定の兼務を打診してみる、社外プロジェクトに週2時間だけ参加する、情報発信を3カ月続けて市場の反応を見る。どれも小さな試作です。やってみて、疲れ方と充実感、家族との折り合い、学習の速度を自分のデータとして集めれば、決断は他人の成功談より納得度が上がります。
「自分探し」の限界を感じているときも、問いを変えてみると前に進めます。自分は何者かではなく、どんな人の、どんなシーンを楽にしたいか。そのために、今週の1時間で何を試すか。デザイン思考の基本は、自己理解を行動に変える最小単位の道具箱でもあります。
まとめ:正解より、学びが早い方へ
華やかなスローガンより、日々の具体。デザイン思考の基本は、人を起点に問いを立て、小さく作って早く学ぶという、ごくまっとうな働き方です。難しい理論を覚えるより、次の会議で「誰のために」「何を決めるか」を一行で掲げ、15分だけでも紙に描く。来週の定例で新運営を一度試し、三つの観点で振り返る。それだけで、チームの体温は上がります。
もし今、仕事にも暮らしにも停滞の手触りがあるなら、今日から一つだけ実験してみませんか。誰の、どんな瞬間を、どう楽にするのか。あなたが選ぶその問いこそが、次の景色を連れてきます。学びの速度を上げる小さな一歩を、編集部はこれからも伴走していきます。
参考文献
- Design Management Institute. Design Value Index: Design Drives Value. https://www.dmi.org/?page=DesignDrivesValue
- McKinsey & Company. 日本企業のデザイン力を高めるために(Lifting the design potential of Japanese companies). 2018. https://www.mckinsey.com/jp/our-insights/lifting-the-design-potential-of-japanese-companies
- Interaction Design Foundation. Design Thinking. https://www.interaction-design.org/literature/topics/design-thinking
- ASQ (American Society for Quality). Affinity Diagram (KJ Method). https://asq.org/quality-resources/affinity
- Interaction Design Foundation. Paper Prototyping. https://www.interaction-design.org/literature/topics/paper-prototyping