摂食障害の闇を抜けた先に見つけた光

20代のころ、私は摂食障害になった。 原因は男だった。

摂食障害の闇を抜けた先に見つけた光

愛されるための「鎧」

20代のころ、私は摂食障害になった。
原因は男だった。

ただ、今思えば大した男ではなかった。いや、正確に言えば「私が好きだったアーティストに似ていた」という、それだけの理由だ。
小さなコミュニティで彼は周りからいつもちやほやされていた。

その彼に「選ばれた」私は、彼の隣に並ぶ自分を誇らしく思った。そして心の中でこう思ってしまったのだ。

―ずっと彼に選ばれる女でいなければ。

若さゆえの勘違いもあったのだろう。私は「選ばれる女」=「細くてスタイルのいい女」だと信じてしまった。愛されるのは中身ではなく外見。そう思い込んで、私は痩せることに必死になった。

当時、私は駆け出しのデザイナーで、やっと入社できた会社で激務の毎日を送っていた。夜遅くに帰宅し、帰り道に買ったファーストフードとコンビニスイーツを食べてすぐ寝てしまう生活。特別太っていたわけではないが、今よりは大きな体だったと思う。

そんな私がそこから一気に食事量を減らしたので、体重は笑えるくらいみるみる落ちた。痩せるのは快感だった。服も似合う、周りからも褒められる。私は「これで彼にふさわしい女になれる」と思い込んだ。

心に棲みついた「怪物」

しかし、ある一定の細さを超えたあたりから、生活は暗転する。
私の体は何かに支えられて起きていることがやっとになり、電車には乗れなくなり、仕事にも支障が出た。

やっと入社できて、これからだと思っていた会社も辞めざるを得なくなった。何より、「食べること」が頭の中の大部分を占めるようになった。自分で勝手に決めたルールにがんじがらめになり、それが守れなければ自分を責めた。

すれ違う人は細くなった私を笑い、彼も気味悪がって去っていった。
気づけば、もはや何のために痩せているのか分からなくなっていた。けれどその頃には、もう自分の体の中に**“怪物”**が棲みついていた。

過食だ。

菓子パン、揚げ物、カップラーメン……。人目を気にして、コンビニをはしごしては買い込み、帰宅も待てず車の中で食べ散らかした。泣きながら食べた。

「食べたくないのに食べてしまう」自分が情けなく、リストカットやオーバードーズまで繰り返した。

血を流せば、薬を大量に飲めば、誰かが心配してくれると思った。

けれど世界は冷たく、社会は何も変わらずに回っていた。自分は孤独で、誰も助けてはくれないと悟った。

「誰もなにもしてくれない。自分で立ち上がるしかない。

根性だけは何故かあった。底力というのか、生きなければと思う本能なのか。ある時、唐突にそう思った。

まずは一か月だけの派遣の仕事に通った。途中で買い食いしても、出勤できない日があっても、とにかく「一か月、必ず最後までやり遂げる」と決めた。それができたら次は三か月、次は半年、一年……。

そうしてなんとか社会復帰は果たせたが、私の中に現れたあの怪物は消えなかった。過食した翌朝は浮腫んだ顔を鏡で見ながら、「それでも今日も行かなくては」と心の中で戦っていた。

そんな精神的にはギリギリの状態だったので、私はすぐに「もう死にたい」と口にし、危うさを抱えたまま生きていた。

愛の抱き方を知らない私

考えてみると私は、幼い頃から自分に自信がなく、愛の抱え方を知らない人間だった。
人前で話すことが苦手で、いつも親の顔色をうかがっていた。友達にも恋人にも同じように接していた。嫌われたくない、怒らせたくない、傷つきたくない。

結局いつも、相手に合わせてばかりいた。人を愛するより、自分を守る方が得意だったのだと思う。

唯一、思い通りになったのは自分の体だけだった。細くなっていく体は、私の「言うことをきく存在」だった。

けれどその体でさえも欲に負けて言うことをきかなくなったとき、私は世界に絶望した。

それでも誰かにそばにいてほしくて、人に依存した。傷つけられる前に自分から離れるくせに、結局また誰かを求めた。

そんな不安定なまま結婚して、半年で離婚。浮気をされたので慰謝料を取り、新しい男性に荷物を運ばせて実家に戻った。

そして今度はその男性と付き合い、子どもを授かり再婚した。

子どもが生まれたら自分の中の何かが変わるのかと思ったけれど、何も変わらない。やはり私は「自分が可愛い女」のままだった。

自分の中の「光」

息子は敏感な子だった。生まれたばかりの頃は眠らず・飲まずで、私は若干ノイローゼ気味になった。泣いている息子を部屋に残し、ベランダから裸足で逃亡したこともある。息子の父親が心配して、自分の実家に息子を数日預けたこともあった。

結局、その夫とも離婚した。その時私の中ではそんなに持て余していた息子だったのに「置いていく」という選択肢は一度も浮かばなかった。不思議なことに、それだけは当たり前だと思っていた。

―愛なんてないと思っていたのに。

今になって思えば、それは私の母の影響だったのかもしれない。「母ならきっと私を置いていかないだろう」と、信じて疑わなかったのだと思う。だから自分も当たり前のように息子を連れて行った。

それから18年、息子とは何度もぶつかり合った。発達障害もあり、不登校にもなり、特に小さい頃は思い通りにいかない日々の方が多かった。

喧嘩をして息子が泣いたまま眠ってしまった夜は、以前はあんなに嫌だった朝が来ることが待ち遠しくなり、「早く明日になって、息子に謝りたい。笑ってほしい」と思うようになった。

息子が笑うたびに、あの頃の自分が少しずつ癒えていく気がする。

息子と二人の時間が長くなるほど、あの怪物は静かになっていった。

どうしようもない母親だったかもしれないが、それでも私はようやく最近になって「母になれた」と思える。

愛情を持てるようになったのは遅かったかもしれない。でも、人並みに、いや人並み以上に、私はこの子に「明るい光しか見えないように」と願ってきた。

私は相変わらず自分が可愛い。けれど、それよりも愛おしいものを知っている。息子の歳の数だけ、私は人を愛してこられた。

過去の闇を照らすモノ

摂食障害の頃、私は「誰にも愛されていない」と思っていた。けれど実際には、ガリガリの私を変わらず食事に誘ってくれた友人がいたし、事情を知りながら休みがちな私を諦めなかった上司もいた。

そして何より、息子を一生懸命に育てている私のそれは、母からもらった愛情以外何者でもなかったのだと思う。あの頃は真っ暗で何も見えなかっただけなのだ。

今はやっと、感謝できる。
私を助けてくれた人たちに、愛されていたのだと気づける。そして何よりも息子が、親を選べないのに私を見離さず、頼り続けてくれたことに、ありがとうと言いたい。

もうすぐ息子は私の元を巣立っていくだろう。けれど私は息子に、人を愛するということを教わった。「自分は一人で生きているのではない」という根本を学んだ。

あの頃の苦しみは、確かに必要だったのだと思う。そうでなければ、愛や感謝について考えることもなく、空っぽのまま生きていたかもしれない。
多分、今も怪物と闘っていたのかもしれない。

そして今はこう思う。

―私は少しでも長く生きたい。息子を愛していたい。

もう病気になっている暇なんてない。

著者プロフィール

種田あきこ

種田あきこ

シングルマザーとして息子を育て、ようやく子育ても終盤に。今はパートナーと二人の生活を楽しみながら、自分のこれからの働き方・生き方を模索中。グラフィックデザインや、発達障害・不登校をテーマにした執筆、SNS支援などを行っている。