2人目不妊と「まだ?」の圧力。言えないまま揺れる私の途中の時間

まだ結果の出ていないことを語るのは、どうしてこんなにためらわれるのだろう。 2人目の不妊治療の途中にいる私は、その事実をあの場でひらくことができなかった。...

2人目不妊と「まだ?」の圧力。言えないまま揺れる私の途中の時間

まだ結果の出ていないことを語るのは、どうしてこんなにためらわれるのだろう。
2人目の不妊治療の途中にいる私は、その事実をあの場でひらくことができなかった。

不妊治療をしてると言えなかった

ある友人との飲み会に参加した。約1年ぶりの開催だった。

話題は、参加者の近況報告になった。転職した人、部署異動になった人、結婚した人、おひとり様の人など、様々だった。

私の番がまわった時、少しだけ息がつまった。

「2人目の不妊治療に専念してるんだよね」

正確には、今は治療を休んでいる。でも、それも含めて言えなかった。「ただの専業主婦をやっているよ〜」と言うに留めてしまった。

転職したこと、結婚したこと、出世したこと、何か成し遂げたこと。なぜだろう。それらと、同じように私は扱うことができなかったのだ。

本当のことを言ったら、きっと友人たちは「うまくいくといいね」と応援してくれるかもしれない。「自分の家もそうなんだ」と打ちあけてくれる人もいるかもしれない。なかには「1人いるからいいじゃん」と励まされるかもしれない。

それでも「不妊治療している」と伝えると、「今うまくいってない人」「子どもを授かれない可哀想な人」って思われるんじゃないかと感じる。

誰に言えて、誰に言えないのか

独身の友人には、まだ少し話しやすい。
「今、妊活のことを考えてて」と言っても、彼女は気負わずに「そうなんだ」と受け止めてくれる。未来の形がまだ定まっていない者同士の気楽さがある。

でも、2人目をもつ友人には言葉が出ない。相手に悪気はないとわかっていても、“もう叶えた人”と“まだ途中の人”という差が、説明しなくても伝わってしまう気がするからだ。ほんの一言を口にするだけで、相手が気を遣わせてしまうのもわかっている。

だから結局「元気にやってるよ」と当たり障りのない言葉を返すしかない。

本当はうまくいかない時期のことも、気持ちが揺れる日のことも話したいのに。

2人目不妊という立場は、子どもがいない人の側にも、2人目を授かった人の側にも、どちらにも寄りかかりきれない“中間地点”にいるようなものだ。1人目がいることで「ゼロからの悩み」ではないと思われ、でも、2人目を持つ友人とは、もう違うフェーズに立っている。

誰に話しても、気を遣わせたり、比べられたりすることを想像してしまい、悩みをそのまま置ける場所が見つからない。だからこそ、この“間”にいる感じは、想像以上に孤独だ。

過程を言えない社会

「2人目は?」「兄弟作ることは考えているの?」

そう聞かれることが増えた。相手に悪気がないのはわかっている。けれど、その一言の裏側には“まだなの?”という前提が静かに置かれている気がする。

妊活に限らず、私たちは“途中の状態”にいるときほど、理由を求められる。仕事を休めば「どうしたの?」と聞かれ、一人っ子なら「兄弟は?」と探られる。

結果がまだ出ていないと、その“途中”はすぐに説明の対象になる。けれど、本当は——妊活は、その“途中の時間”が圧倒的に長い。検査をして、薬を飲んで、タイミングを見て、期待したり落ち込んだりしながら、ゆっくり生活が揺れていく。悩みも葛藤も、その長い途中にこそ詰まっている。

しかし、社会にとって揺れている時間は“成果の出ていない時間”として扱われる。もちろん履歴書になんて書けるものでもない。

その一方で、揺れている時間をどう生きているかは、本来もっと尊重されていいはずだ。なのに、この“途中”はほとんど語られない。むしろ、語るには「成果」が必要だという空気すらある。

「授かりました」「うまくいきました」——そういう結果が得られて、初めて言葉にする許可書を得られるようだ。しかし、そこにいたるまでの迷いや疲れ、苦しみは、どこにも置けずに消えていく。だから「妊活しています」と言うのは怖い。

言った瞬間、相手を気遣わせてしまうのもわかるし、「1人いるならいいじゃん」と軽く扱われるかもしれない予感もある。どちらに転んでも、心がざわつく。

たとえば「うまくいくといいね」と言われるだけで、“まだ授かっていない”という現実が改めて突きつけられるように感じてしまう。誰も悪くないのに、その言葉の重さだけが胸に残る。優しい言葉も受け取れないくらいに追い込まれてしまっているのだろう。

背景には、“母親であること”がひとつの評価軸のように扱われている社会の空気もある。一人っ子の親は「かわいそう」と言われ、2人以上いる母親のほうが“正解ルート”に見える。

そこから外れると、説明や理由が必要だという前提がある。“2人目がいない理由”を、わざわざ用意しなきゃいけない。

「経済的な事情があって」
「体力的に難しいかなって」
「仕事を続けたいから」
「親の介護があるんです」

理由を言えば、相手は「あぁ、そうなんだ」と受け入れてくれる。 でも、その納得の早さに、いつも少しだけ置いて行かれる。 私の気持ちは、そんな簡単じゃないのに。

だから私は、自分の悩みをそのまま置ける場所を探し続けている。妊活は個人の選択であるはずなのに、社会のまなざしが、いつのまにか線を引いてしまう。その境界は、家庭の中にも静かに入り込んでいた。

「2人まで産んでおきない」母からの一言


ある日、母に言われたことがある。
「2人まで産んでおきなさい。そうすれば、周りから、とやかく言われなくなるよ」

その言葉を聞いたとき、胸の奥がざわついた。驚きでも、怒りでもなく、うまく名前のつけられない感情だった。母の世代が経験してきた“女性の生きやすさ”と“生きにくさ”が、その一言に凝縮されている気がしたからだ。

母は悪気があって言ったわけではない。むしろ、社会の圧力の中で生き延びるための知恵として私に教えてくれたのだと思う。

子どもが2人いれば「ちゃんとしている」と見られる。1人だと「なぜ?」と理由を求められる。その空気に長く晒されてきたのだろう。

だからこそ「2人産んでおけばいい」という言葉は、母なりの“防御策”だったのかもしれない。

でも、その防御策を受け取ることは、私の心に小さな痛みを残した。私はいま、2人目がほしいと思いながらも、簡単には前に進めない場所にいる。

治療を休んでいることに罪悪感を抱く。でも続ける勇気も足りなくて、どちらにもはっきりと寄りかかれない。

そんな私にとって、「2人産んでおけば」という言葉は、“正しい生き方”にうまく乗れていない現実をそっと示すものでもあった。

しかし、その言葉を噛みしめるうちに気づいたことがある。
母の一言の奥には、“世間から守りたい”という気持ちと同時に、“世間に傷つけられてほしくない”という祈りのような感情が静かに宿っていたのだということ。

私はいま、その祈りの一部を受け取りながら、自分の道をもう一度選び直そうとしている。誰かに理由を説明するためではなく、誰かの期待に合わせるためでもなく、“途中の私”をどう生きるかを、自分の言葉で決めるために。

途中の私もそのまま抱えて生きていく


私はいまも、迷っている。治療を再開するのか、このまま様子を見るのか。

どちらにも不安があって、すぐには決められない。けれど、その迷いから逃げているわけじゃない。
揺れながらも、自分にとって本当に大事なことをひとつずつ確かめている最中なのだと思う。

妊活は、結果だけを求められやすい世界だ。でも私は、途中にいる時間もちゃんと生きている。決められない日も、立ち止まる日も、全部ふくめて“私のプロセス”だ。

そのことだけは、誰に説明できなくても、自分で否定したくない。妊活のことを話すかどうかも、その日の自分が選べばいい。

言えない日は黙っていていいし、苦しい日は、信頼できる誰かに少しだけ預けてもいい。「こうしなきゃ」ではなく、自分が呼吸しやすくなるほうを選べばいい。

未来がどうなるかはまだわからない。でも、わからないままでも進める。迷ったまま進むことだって、ひとつの力だ。不安を抱えた私も、赤ちゃんを願う私も、どちらも大切にしながら、もう少し丁寧に、自分のペースで歩いていこうと思う。

著者プロフィール

河井あやね

河井あやね

Webディレクター、広報、エンジニアなどを経て、様々な職を経験したライター。ドイツでの暮らしや不妊治療、結婚、妊娠、出産、流産など、人生の転機をいくつも経験。現在は第一子の子育てに邁進しながら、変わり続けるキャリアとライフステージの狭間で、自分らしい生き方を模索中。同年代の女性たちの多様な生き方を応援したい思いから、参画。