雨宿りの考古学 ep04 伏せた写真

京都・出町柳の古民家カフェ「土器と珈琲」。雨の日だけ開くその店で、考古学者の篠原睦美と店主の小野寺朔は、土器と珈琲を通じて過去と現在をつなぐ。

雨宿りの考古学 ep04 伏せた写真

睦美は『土器と珈琲』の扉を押す。鈴が小さく鳴り、朔が厨房の棚から振り返った。目が合うと、朔の表情がわずかに和らぐ。

「いらっしゃい」

朔は手にしていた土器の破片を棚に戻し、エプロンで手を拭いた。左手の薬指が動くたび、白い跡が光を反射している。睦美はそれを見ないようにして、いつもの窓際の席についた。

「今日は何を」

朔が聞きかけて、言葉を止める。視線の先で、睦美が厨房の棚を見ていた。写真立てが伏せてあることに、今日も気づいているのだろう。

朔は何も言わず、土鍋を取り出す。蓋を開けると、昨日とは違う香りが立ち上った。

「炊き込みご飯を作ってみようと思って」

朔が米を研ぎ始め、水が透明になるまで何度も流していく。睦美は発掘ノートを開いたが、文字を追う気にはなれない。朔の指先が米粒を優しく撫でるように動き、水滴が手首を伝って落ちていった。

「母の命日用に作る練習なんです」

朔が振り返らずに言う。睦美は顔を上げ、朔の背中を見つめた。エプロンの紐が少し緩んでいて、腰のあたりで小さく揺れている。

「いつですか」

「来月の十五日」

朔は土鍋に米と出汁を入れ、醤油を垂らした。琥珀色の滴が水面に広がり、ゆっくりと沈んでいく。

睦美は万年筆を取り出して、ノートに日付を書きかけた。インクが紙に染み込む前に、手が止まる。

「私も、亡くした人がいます」

言葉が口をついて出た。朔が振り返り、睦美と目が合う。二人の間に、土鍋から立ち上る湯気だけが漂っていた。

「婚約者でした」

睦美は万年筆のキャップを回しながら、小さく続ける。朔は何も聞かず、ただ頷いて火加減を調整した。弱火にすると、土鍋がことことと小さな音を立て始める。

時計の針が三時を指す頃、炊き込みご飯の香りが店内に満ちていた。朔が木杓子で優しくかき混ぜ、茶碗によそう。湯気と一緒に、昆布と椎茸の匂いが鼻をくすぐった。

「どうぞ」

朔が茶碗を睦美の前に置く。箸を手渡すとき、指先が一瞬触れて、朔がすぐに手を引いた。睦美は炊き込みご飯を口に運び、ゆっくりと噛みしめる。

「美味しい」

朔が小さく微笑み、自分の分も茶碗によそった。二人は黙って食べ、時折箸が茶碗に当たる音だけが響く。窓の外で雨が降り始め、ガラスを細かな水滴が伝い始めた。

「お母様も、きっと喜ばれますね」

睦美が箸を置いて言う。朔は頷き、茶碗の縁を指でなぞった。

「毎年同じものを作るんです。母が好きだった味を」

雨音が少しずつ強くなり、軒先から雫が落ちる音が聞こえてくる。睦美は窓の外を見ると、傘を差した女性が立っていた。千鶴だった。

千鶴は店に入らず、窓越しに睦美と目が合う。小さく会釈して、そのまま路地の奥へ歩いていった。朔は厨房で食器を洗っていて、窓の外には気づいていない。

睦美は立ち上がり、鞄を手に取った。

「ごちそうさまでした」

朔が振り返り、手を拭きながら玄関まで見送る。睦美が靴を履いていると、朔が静かに口を開いた。

「写真立て、気になりました?」

睦美は顔を上げて、朔を見つめる。朔の瞳が、答えを待っているように揺れていた。

「いいえ」

睦美は短く答える。朔の表情が和らぎ、口元に小さな笑みが浮かんだ。

「良かった」

朔はそれだけ言って、扉を開けた。雨の匂いが店内に流れ込み、睦美の髪を湿らせる。

「また、雨の日に」

朔が言い、睦美は頷いて傘を開く。雨粒が傘を打つ音が、規則正しく響き始めた。

睦美は数歩歩いてから、振り返る。『土器と珈琲』の窓から、朔が写真立てを手に取っているのが見えた。写真を見つめる朔の横顔は、睦美が知らない誰かを思っている表情だ。

雨粒が窓を伝い、朔の姿が白くぼやけていく。睦美は傘を握り直して、路地の奥へと歩き始めた。石畳に落ちる雨音が、足音と重なって消えていく。

著者プロフィール

藍田 聴

藍田 聴

2025年より「雨宿りの考古学」を連載中。