認知症とお金の現実:口座は「善意」だけでは動かない
2025年には65歳以上の約5人に1人が認知症になると推計されています[1](出典:内閣府 高齢社会白書)。なお、厚生労働省研究班の最新推計(2024年報道)では、認知症の高齢者は2025年に約471.6万人、2040年に約584.2万人と見込まれています[2]。あわせて、経済産業省の整理では2022年時点で認知症の高齢者約443万人、MCI(軽度認知障害)は約559万人とされています[3]。同時に、判断能力が低下すると銀行や証券などの口座は家族でも自由に動かせないのが日本のルール。医学文献では金銭管理能力の低下が初期から現れやすいとされ、日常生活の中でもっとも早くつまずく領域の一つと報告されています[4]。編集部が公的資料や研究データを読み解くと、問題は「突然やって来る」のではなく、日々のうちに静かに進行し、ある日、口座の手続きや契約変更ができないという形で表面化することが見えてきました。
投資やNISA、サブスクやキャッシュレスが当たり前になった今、資産管理の複雑さは一世代前とは比べものになりません。だからこそ認知症と資産管理は、親のためだけでなく自分のためのテーマでもあります。ここでは制度や数字に寄り添いながら、明日から動ける現実的な備え方を、やさしく、しかし正確に整理します。
まず押さえておきたいのは、金融機関は本人の意思確認ができない状態での取引を原則として認めないという点です。家族が暗証番号を知っていても、代理で出金することは規約違反や不正利用に該当するおそれがあり、トラブルになれば家族側の責任が問われる可能性も否定できません。定期の解約や名義変更、投資信託の解約、保険金の請求、さらには携帯や電気ガスの契約変更に至るまで、署名・押印や意思能力の確認が必要な場面は想像以上に多く、判断能力の低下は生活全体に波及します。
研究データでは、軽度認知障害(MCI)から認知症への移行率は年率で約10〜15%と報告され[5]、金銭管理や複雑な手続き(IADL)は早期から影響を受けやすいと示されています[4]。つまり、物忘れの段階でもクレジットの支払い忘れや二重払い、詐欺的な勧誘への脆弱性が上がることがあるということ。「困ったら家族が何とかする」は、制度上は通用しない。ここに現実と感情のギャップが生じます。
介護の費用感も見逃せません。生命保険文化センターの調査では、介護期間は平均で約5年、一時的にかかった費用は数十万円規模、毎月の自己負担は平均でおおむね7〜8万円とされ、総額は数百万円に達するケースもあります[6](出典:生命保険文化センター「介護保障に関する調査」)。これらは公的介護保険をベースにしても発生する自己負担の目安で、住まいやサービス選択で変動します。だからこそ、費用を誰が、どの口座から、どの権限で払うのかを、元気なうちに設計しておくことが資産管理の核心になります。
「ある日突然、止まる」前に見ておきたいシグナル
支払いの滞りや振込の誤り、投資商品の解約忘れ、公共料金の督促状など、日々の小さなほころびはサインになり得ます。家族が「気づいて声をかける」タイミングで、責めずに事実を一緒に確認し、現在の支払い経路やID・パスワードの把握状況、連絡先の更新ができているかを落ち着いて整理することが、最初の一歩です。ここでのポイントは、将来の不安を煽るよりも、今の暮らしをラクにするための整備として話すこと。片付けと同じで、始めるほどに負担が軽くなります。
制度で備える:任意後見・法定後見・家族信託の使い分け
家族の善意を制度として支えるために、日本には後見制度や信託などの選択肢が用意されています。それぞれに強みと限界、費用と手間、発動のタイミングが異なるため、特徴を理解し、組み合わせて使う発想が有効です。
任意後見契約:元気なうちに将来の代理人を指名する
任意後見は、本人が十分に判断できるうちに「将来、判断能力が低下したときの代理人(任意後見人)」を公正証書で指定しておく仕組みです[8]。発動は家庭裁判所が任意後見監督人を選任した後で、医師の診断書などに基づいて開始されます[9]。裁判所の関与により透明性が担保される一方、手続きに1〜3か月程度の時間を要することが多く、早めの設計が有効です。目安となる費用は、公証人手数料が数万円、専門家に依頼すれば書類作成等で十数万円規模、開始後の監督人への報酬が毎月1〜2万円程度発生することが一般的です。日常の財産管理や役所・金融機関での手続きを広くカバーでき、本人の意思を事前に細かく反映しやすいのが利点です。
法定後見:すでに判断が難しくなってからの安全網
すでに判断能力が低下している場合は、家庭裁判所が選任する法定後見の出番になります[8]。安全性は高いものの、日常の贈与や自宅の売却などには裁判所の許可が必要となるなど、柔軟性は限定されます。選任まで時間を要すること、誰が後見人になるかは裁判所の判断であること、報酬がかかることも織り込む必要があります。任意後見を先に用意できなかったケースの重要な受け皿であり、「今すぐ支払いを止めたい・動かしたい」場面での即効性が必ずしも高くない点は理解しておきましょう。
家族信託(民事信託):生前から運用できる柔軟な器
家族信託は、財産の名義は本人のまま「管理・処分の権限」を受託者(多くは家族)に託す仕組みです。元気なうちから発効し、本人が認知症になった後も受託者が継続して管理できます。不動産の売却や賃貸収入の管理、運用資産のリバランスなど、任意後見より柔軟に設計できるのが魅力です。一方で、年金や給与の受け取りなど信託に馴染まない資産もあり、対応可能な金融機関や手続きの実務も差があります。費用は契約設計に専門家が関与する場合で20〜60万円程度、不動産を組み込めば登記費用や登録免許税も発生します。**「特定の資産は家族信託で運用し、広範な事務は任意後見でフォロー」**という併用設計は実務でもよく見られます。
保険の指定代理請求人・各種の代理制度も点検する
生命保険には、本人が請求できないときに代わって手続きできる「指定代理請求人」をあらかじめ登録できる制度が用意されています[12]。医療保険やがん保険の給付金請求に活用しやすく、いざという時の資金繰りに直結します。銀行や証券の「包括的な代理権」は法的な根拠が必要なため、任意後見や家族信託と組み合わせるのが基本ですが、公共料金やサブスクのアカウント共有など日常の支払いは委任状や家族内の実務で整理できる部分もあります。名義貸しや家族カードの濫用は後の税務・相続トラブルの火種になり得るため、線引きは慎重に。
日常を整える資産管理:口座設計・情報リスト・デジタル資産
制度を用意しただけでは、毎月の支払いがスムーズに回るとは限りません。鍵になるのは「お金の通り道」をシンプルにし、誰が見ても理解できる状態に整えることです。まずは収入の受け皿、固定費の引き落とし、変動費の支払いを分けるイメージで、生活口座・固定費口座・予備口座という三つの役割を決め、それぞれの残高目安を設定しておくと管理がぐっと楽になります。給与や年金が入る口座は動かしにくいため、その受け皿を起点に振替の自動化を進めると破綻しにくくなります。
次に、支払いと資産の「見取り図」を作ります。銀行、証券、保険、年金、住宅ローン、クレジットカード、サブスク、スマホ決済、ポイント、マイル、見守りサービスなど、関係する口座と契約の一覧を、一画面で見える形にまとめるのが理想です。専用の家計簿アプリやスプレッドシートを使っても良いですし、紙のファイルで「一覧表+明細」を綴じる方法でも機能します。重要なのは、アカウントIDや問い合わせ先、解約や名義変更の導線まで書き込んでおくこと。ここを作っておけば、万が一の時に家族が迷子になりません。
デジタル資産の管理は時代の急所です。二段階認証やパスワードの保管場所、復旧コードの扱いを決め、信頼できる家族に「アクセスの鍵」を残しておきます。パスワードマネージャーを利用するなら、マスターパスワードと緊急連絡先の伝達方法を別経路で共有し、紙の封書を金庫や貸金庫に預ける方法と併用すると、安全性と実務性のバランスが取りやすくなります。反対に、付箋やメモの貼り付けはリスクが高く、紛失や第三者の目に触れる可能性も否定できません。「安全すぎて誰も開けない」でも「ゆるすぎて誰でも開ける」でもない、中庸の設計を目指します。
キャッシュレス時代ならではの盲点も整理しておきましょう。スマホのロック解除ができないだけで、モバイル決済の停止やサブスクの解約が一気に難しくなります。端末の予備機や復旧用の連絡先、Apple IDやGoogleアカウントの緊急アクセス設定[9,10]、携帯キャリアの家族サポートなど、デジタル遺産の基礎に触れておくと、いざという時の混乱を防げます。公共料金や保険料の引き落としが続いていても気づきにくいので、毎年の「契約棚卸しデー」を家族で持つのもおすすめです。
介護費の見当をつけ、資金の出口を決める
介護の費用は地域差が大きく、在宅中心か施設中心かでも大きく変わります。公的介護保険の自己負担は原則1〜3割ですが[7]、介護サービス外の支出(生活支援や家事代行、交通費、介護用品、住環境の改善など)が積み上がります。まずは居住地の介護サービス単価や利用できる助成を把握し、月いくらまでなら家計が耐えられるか、どの口座から出すのか、医療費控除の申告や高額療養費制度の手続きの担当は誰かを、家族内で合意しておくと意思決定が早くなります。ここで活きるのが前述の口座設計と情報リストです。支払いは生活口座から、予備費は定期を解約して、税務書類はこのフォルダに、という流れが見えるだけで、現場のストレスは大きく減ります。
親とも自分とも向き合う:話し方とタイミングの工夫
「お金の話」は誰にとってもセンシティブです。話題に切り出す時は、将来の不安を強調するより、今日の暮らしをラクにする提案から始めるとうまくいきます。たとえば災害対策や入院に備えた持ち物リスト作りを一緒に進め、そこから金融の連絡先や保険証券の所在に自然と話を広げる方法があります。編集部の実感としても、まず自分の資産リストを作って親に見せるとスムーズです。「私はこう整えたよ。同じフォーマットで作る?」という誘いは、指示ではなく共同行為として受け止められやすいからです。
タイミングは、支払いのトラブルが起きた後より、年に一度の健康診断や誕生月などの節目がいいでしょう。否定や詮索にならないよう、質問は事実ベースで短く、決めるのは本人という姿勢を保ちます。任意後見や家族信託に話が及んだら、公証役場や司法書士・弁護士の無料相談を併用し、費用と範囲の見積もりを取りながら検討すると安心です。制度の選択は家庭の事情で最適解が変わるため、遺言・相続の基本や親の介護ガイドとセットで俯瞰しておくと、全体設計の精度が上がります。
「今の自分」への備えも同時に進める
35〜45歳のわたしたち自身にとっても、資産管理は未来の話ではなく現在進行形です。事故や急病でしばらく意思表示ができない期間は誰にでも起こり得ます。給与が入る口座と固定費の引き落としを分け、パスワードの管理方針を決め、保険の指定代理請求人を設定しておく。これだけでも実務の停滞は大きく減ります。ついでに、勤務先の緊急連絡先、住宅や賃貸の契約書の所在、医療情報の共有先も整えると、家族も自分も守られます。全体の棚卸しに週末の1〜2時間、見直しに年1回の30分。この時間投資は、将来の自分を何度も助けてくれます。
まとめ:きれいごとじゃない現実に、具体策で応える
認知症と資産管理は、情だけでは乗り切れない領域です。だからこそ、制度で支え、情報で迷子を防ぎ、日々の設計で家族の負担を軽くする。口座の役割分担を決め、契約と連絡先のリストを作り、パスワードの扱いを合意し、必要に応じて任意後見や家族信託を前向きに検討する。どれも特別な人の専用ではなく、わたしたちが今日から始められる現実的なアクションです。
完璧でなくていい、でも止めない。まずは30分で「資産と契約の一覧」のたたき台を作ってみませんか。次に、親の誕生月に合わせて一緒に見直す予定を入れましょう。関連する基礎知識は40代のマネーとメンタルの負担、制度面は遺言・相続の基本、介護の全体像は親の介護ガイドが役立ちます。小さな前進を積み重ねることが、いちばん確実な守りになります。
参考文献
- 厚生労働省 第58回社会保障審議会介護保険部会(2016年)資料・議事録(2012年推計および2025年「約5人に1人」等の記載)。 https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi2/0000131856.html
- NHKニュース(2024年5月8日)。認知症の高齢者 2040年に推計584万2000人。 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240508/k10014442791000.html
- 経済産業省 認知症政策(2022年時点の認知症・MCI推計)。 https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/healthcare/dementia/dementia.html
- 田平隆行ほか(2022)。地域在住認知症高齢者の手段的日常生活活動に対するリハビリテーション.精神神経学雑誌124巻10号. https://journal.jspn.or.jp/Disp?mag=0&number=10&start=717&style=abst&vol=124&year=2022
- 生命保険文化センター(メールマガジン)。軽度認知障害(MCI)とは?(MCIから認知症への年間移行率)。 https://www.jili.or.jp/mailmagazine/backnumber/9761.html
- 生命保険文化センター。介護保障に関する調査(介護期間・費用の実態)。 https://www.jili.or.jp/
- 厚生労働省。介護保険制度について(自己負担割合等の概要)。 https://www.mhlw.go.jp/topics/kaigo/index.html
- 法務省。成年後見制度(任意後見・法定後見)の概要。 https://www.moj.go.jp/
- 裁判所(家庭裁判所)。成年後見制度の申立手続の案内。 https://www.courts.go.jp/
- Apple サポート。デジタル遺産連絡先(デジタル遺産プログラム)。 https://support.apple.com/ja-jp/HT212360
- Google アカウント ヘルプ。不慮の不在時のアカウント管理。 https://support.google.com/accounts/answer/3036546?hl=ja
- 生命保険文化センター。指定代理請求人制度とは。 https://www.jili.or.jp/